Vol.1 岩手県最大の被災地
2012/12/30
陸前高田市でただ一人の小児科医師 大木智春さん

【 「あの時」を語る 】

早朝4時に東京を出発して、目指すは陸前高田市。岩手県内で最大の被災地となっだ町だ。ドライバーはご存じ田中店長。助手席は私。私は、岩手県一関市出身で、今回の震災でも多くの親戚が壊滅的な被害を受けた。そのことを知っている田中店長が、「一度、取材に行きませんか?」と誘って下さったのだ。

気仙沼を抜け、東浜街道を北上。空は快晴、リアス式海岸が更に美しく見える。右手に広田湾を見ながら進むと、陸前高田市に到養。震災で落ちた気仙大橋も復旧しており(この橋が崩壊したため、最大7Oキロの迂回ルートがあったらしい)、スムーズに市内に人ることができた。

いくつか点在する鉄筋の建物を残して、きれいさっぽり整地された感のある市街地。集約されたガレキ置き場では、重機がせわしなく動いている。有名になった「高田松原の一木松」や、かつて賑わったであろう海岸線。新たに整備された仮設道路。
多くの被災地でほ、震災前と震災後が混在する風景が広がるのだが、このまちにほ「震災前」を感じさせるものは皆無に等しい。目の前は、全て 「震災後」なのだ。
陸前高田市の中心地は比較的広く、リアス式海岸沿いでは最大規模の平地。人々に恩恵をもたらしてきた地形が、今度の津波でほ逆に作用しだのだ。

人口2万5千人、約7千世帯の陸前高田市。今回の震災で1691人が亡くなり、41人が行方不明となった。(3月1日現在)。4世帯に1軒は遺族となる計算だ。ある地域では、150世帯のうち150人が亡くなっだ。町の8割が崩壊し、15校ある小中学校のうち、4校の校舎が全壊した。
町で唯一の小児科医、大木智春さんほ、ここにいる。

【 なぜ「あの時」を語るのか 】

白衣を着た大木さんは、笑顔で私たちを迎えてくれた。挨拶もそこそこに、「現場を案内しましよう」と語り、ゴルフⅡで市内に滑り出す。まずは、箱根山。標高446mのこの山は、市内と広田湾全体を見渡せる場所。それにしてもキツイ勾配が続く山道を、大木さんのゴルフⅡは柔らかく登っていく。パワーにモノを言わせてぐいぐい登るのではなく、適度なアクセル調整で無駄なく登る感じ。このゴルフⅡは92年式のディ一ゼル車で、CLDをベースにした40th 限定車のパッケージ。低速からの粘り強いエンジンが持徴と言われる。ちなみに、リッター20kmと、燃費も日本仕様のゴルフⅡの中でトップクラスを誇り、燃費重視で走れば30km超も可能となる。

箱根山から見る広田湾は、形容できないほど美しい。しかし、目を移すと地肌をさらす高田市内が否応なく現実を見せつける。「津波の時は、この半島も津波が横断したのです」。大木さんの説明の言葉の中に、大きいとか凄いなどの表現は少ない。淡々と、ありのままを説明する。それが、私の想像力を増殖させる。ありのままに表現する力を感じる。
大木さんのもとには来客が多い。仕事上のネットワークを通して全国から来訪する方々を丁寧に応対している。フライベートでも、大木さんを頼って陸前高田の地を踏む方々もいる。大木さんは仕事の合間を縫って、出来るだけ現地の案内をしてきた。
「まずは、被災地の状況を知ってもらいたいんですね。それが残された者の役割だと思います」
大木さんは、相変わらす淡々と話す。

【 県立高田病院 】

被災前の県立高田病院は、病床数7O床。地域の中核的な病院だった。津波で職員12名、入院患者15名の命を失った。震災当時、大木さんは2階におり、片づけをしていた。数日前にも津波警報が出されていたし、皆、まさかあれほど大きな津波が来るとは想像していなかった。その直後、「津波が来る」との報。海を見ると、大きな黒い物体が向かってくるのが見える。病院内はパニックになっていた。
大木さんほとっさの判断で、3か所ある階段のうち、院内中央の階段を駆け上がる。少しでも津波の襲撃を遅らせようという判断だった。それでも、押し寄せる濁水にひざ下は濡れた。「後ろを振り返っていたら、私の命もなかったと思う」。
屋上に集まったのは100人あまり。そことて安全とほ言えない。第2波、第3波の規模次第では、どうなるかわからない。3月の陸前高田は寒い。夜には雪も降ってきた。病院のオムツを開いて肩を覆うと少し寒さが和らいだ。ごみ袋を破いて頭から被った。階段の踊り場やエレベーターの機械室で一晩を過ごした。厳しい環境の中、避難者の中で更に3名が命を失った。
翌日、ヘリコプターが何度も行き交う。救援なのか報道なのかわからない。通信手段がない中、状況把握できない苛立ちが避難民を襲う。「今夜も、ここで過ごすのか」あきらめかけた時に、救援が始まった。24時間後の救出だった。

【 4台のゴルフⅡ 】

大木さんは、今までに4台のゴルフ2を乗り継いできた。
1台目は、山口にいた時なので、2O年も遡る。最初からゴルフⅡに決めていたわけではなく、選びにいっだ国産車の隣にゴルフⅡがあった。当時は、ビートルが人気で、「FFのゴルフなんて」という雰囲気もあった。ゴルフⅠ・ゴルフⅡが認知され、見直されてきた時期にも重なる。たまたま乗り始めたゴルフⅡ。これが気に入った。
2台目と3台目は同時期に購入した。白と濃紺のゴルフⅡ。ドライブ用とチョイ乗り用と目的別に2台の車を持つ人はいるだろうが、スペックは違えど、同じ車を持つのは何故なのか?
「どうして2台持っていたんですか」
「2台を交互に乗ると、両方の車が長く乗れるような気がして…」
なんだか拍子抜けする答えではあるが、それだけ気に入っている証拠。愛情をいっぱいに接してきたことがわかる。その愛車2台も津波で流された。
「津波後、湾岸部の廃車置き場で車が見つかって、廃車登録ができました」
車は機械だけに、いつかはその寿命が来る。しかし、こんな形で終わりが来るとは…。

震災後の4月1日。スピニングガレージに一本の電話が来た。
「陸前高田の大木です。なんとか生きています。落ち着いたらゴルフⅡを見に伺いたいと思っています」
この朗報に、大木さんの安否を心配していたスピニングガレージのスタッフ全員が沸いた。涙が出た。無事であったこと。まだゴルフⅡに乗ってもらえること。繋がっていたこと。全てが嬉しかった。
東日本大震災は、多くの命と財産を奪った。便利さと豊かさを享受してきた現代文明も、自然の脅威の前には、無力さを露呈した。しかし、失われなかったものもある。それは、人と人がつながる力だ。声をかけあい、手を延ばし合う。見えない友の無事を祈る。そんな小さなつながる力は失われなかった。
市域の8割が被災した陸前高田には「震災前のものは無くなった」と書いた。しかし、震災前と震災後をつなぐことはできる。大木さんは、ゴルフⅡを乗り継ぐことで、過去と未来をつなげる選択をした。
ゴルフⅡは、生産中止から2O年を迎える。しかし、その後も多くのユーザーが乗り継いできた。廃車から部品を調達し、再生を繰り返してきた歴史がある。ゴルフⅡに時化して生まれ変わらせてきた技術屋の意地がある。それはそのまま、ゴルフⅡを支持してきたユーザーの歴史でもある。
「ル (再)」「ネッサンス(生まれる)」。
再生の繰り返し、ルネッサンス。それがゴルフⅡの持つひとつの側面なのだ。
大木さんは、またしてもゴルフⅡを選んだ。これで2O年間ゴルフⅡを乗り継いできたことになる。「公共交通機関が崩壊した町では、車が日常生活の足です。だから頑丈な車が必要。」と大木さんは語る。ドラゴンレールと呼はれるJR大船渡線は崩壊し、復旧のめどはたたない。地域の路線バスも大打撃を受けた。その町を、大木さんの4台目のゴルフⅡは、今日も日常の足として活躍している。

【 「再生すると思いますよ」 】

大木さんとの別れ際、言い出せなかった質問をしてみた。
「大木さん、この町は再生しますか?」
大木さんは、躊躇なく答えた。
「再生しますよ」

大木さんの仕事は医者。人間の機能を再生させる仕事だ。人間の機能の再生によって、本人はもとより、家族や地域社会の人々、そして未来が明るくなる。その医者が「この町は治る」と言っている。安心なことだ。

大木さんへのインタピューの後、改めて町をまわった。被害の少なかった地域に様々な芽吹きを感じる。プレハブとはいえ、大きな仮市役所ができている。「りくカフェ」は、新しいタイプのコミュニティカフェ。情報発信の拠点機能も持ち、多くの人が出入りしていた。遺児支援を行う「あしなが育英会の準備室」として、コンテナハウスもできている。「伊藤文具店」は、震災図書のブ一スを設け営業再開していた。東北でも数少ないジャズ喫茶として有名だった 「ジョニー」も復活。大盛りパスタもおいしかった。片隅では客が紅茶の自家焙煎に挑戦していた。

陸前高田の再生には、長い時間と困難な道のりが必要かも知れない。
しかし、再生を信じる人々がいる限り、一歩一歩前に進むはずだ。
私たちにつながる力があれば、東北の再生を共に歩み、感じることもできるはずだ。
強く、強く、そう思う。

文章:菅原直志  写真:田中延和

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