普段あまり小説は読まないのですが、眞田珈琲さなださんが、フェイスブックでの僕の発言の数々を見ていて、「この本貸すから、まだ読んだことなかったら読んでみ!」と貸してくれたので、読んでみました。
昨夜読み始めてしまったら止まらなくて、今朝も店に来て雑用する予定を2時間ほど遅らせてもらって、一気読みしてしまいました。
有名な本なので、読んだことあるよ、っていう人が多いかと思いますが、2013年の世相だからこそ、今生きている人にはぜひ読んでほしい本です。とりあえず店のみんなには贈りたい!
僕の個人的な感想をつづるのもおこがましいな、という感じがしますのであまり言葉を多く吐こうとは思いませんが、

ただ、僕が自分の中で直感的に感じててもなかなか論理的にまとまらない部分、
「戦争は反対。だけれども渦中に自分の身が置かれたら、殺し殺されることを否定せずに突き進むだろう。生物として遺伝子上プログラミングされている面はあるんだろうけど、そこだけで割り切れない感覚は何だろう?」
「右も左も、だいたい上からや外野から、ものを言ってるようで気に食わない。けど、自分がただの日和見で中庸な感じもして、右と左のバランスの上でのみ歩いているようにも思えて、自分自身のことも気に食わない。」
「そもそも論理的に理解しあうことと、感覚で理解しあうことは別物。だけどそれがどう別物なのか、他人に納得してもらえるような説明ができないし、自分でも自分に対してうまく説明ができない。たまに論理的な共感と感覚的な共感が相容れないものであることがある。」
等々、昔から悶々としつつうまく表現できない面が、氷解していく感じがしました。
先月上旬から中旬にかけて、はだしのゲンに関する話題で各方面でいろんな意見を見て、どれもすっきりせず、その後夏休みに、中沢啓治さんの「はだしのゲン わたしの遺書」を読んで、余計に考えさせられるというか、タブーを扱うことの難しさ、そもそもなぜタブーがタブーたりえるかという点への疑問が余計強くなって、そこも悶々としてたんですが。
戦争と平和という、単純な二項対立でそんな簡単に人間社会の諸問題が解決できるものなら、もう何千年も前から戦争なんてやらなくなってるはず。戦争だけに限らず、ひとたびタブーを作ればそこが聖域となり、タブーを武器としてコントロールできるものが圧倒的に他者をコントロール下に置くことができるというのも、くだらん、と思う。
今の文明がその問題をことさら複雑化させているなら、人間がそれを乗り切ることができるかどうかが、試されている(自分たちが現世で自分たちに課している?)課題なのだと思います。
自分の人生の何かを、他の誰かのせいにしたところではじまらないのに、そうしてしまうと楽だし、現状の否定にも自己否定にもつながらないから居心地もいいし、でも、そういう人生とか社会は、つまらないと思う。
小さいときから僕は、矛盾する二項や、二律背反だとされる二項を、別の次元からクリアすることを意識して過ごしているように思っているのですが、中年になって?それとも社会が不安定さを増して?それが自分の中でより強く意識されるようになってきている気がします。

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