昨日、おなじみ日野市議会議員の菅原直志さんに対談取材をさせてもらったのですが、その会場を「いのちのミュージアム」で、やらせていただきました。
一ヶ月ほど前に一緒に陸前高田と気仙沼に行ってきまして、その背景とか、お互いの心の中に残った思い等を、語っておこうということになりまして。
http://blogs.yahoo.co.jp/spinninggarage/63078500.html
(↑こんな感じで行ってきたときの話です)
対談の場は、いい雰囲気の場所とかなじみのカフェとかでもよかったのですが、どうも今回の対談にあたっては、根っこの部分では「いのち」とどう関わるか、というテーマがあるような気がして、菅原さんの仕事やライフワークとも関わりの深い「いのちのミュージアム」を選ばせていただいた次第です。

廃校になった学校の建物を再利用して作られたいのちのミュージアムは、「いのち」がテーマになっており、事故や犯罪等に遭い亡くなったかたが「メッセンジャー」としてアート展の主役になっています。
この場のすごいところは、いのちをテーマに扱いながら、あくまでもアートであること。
見る側に対して解釈を強要することはありません。何かを感じるきっかけになり、人のいのちがつながるきっかけになればいい、というコンセプトで運営されています。
この世に「絶対的に正しい」というものは存在しないそうです。
ゆえに、被害者と加害者、あるいはいのちを奪う側と奪われる側という対立の概念の中に限定して人のいのちをとらえる構造に陥ると、立場の違う両者は、どこまでいっても理解しあうことはできません。
だから、犯罪や戦争において生まれた遺恨は、いくら時間がたっても、形を変えて後世まで残ってしまいます。
いのちのミュージアムのメッセンジャーは、あくまでメッセンジャー。いろいろな価値観のメッセンジャーが、いろいろなメッセージをそれぞれ出している。見る人は、共感できるものの中から、何かを感じればいい。これはアートだから。
正しいかどうかの解釈や評価はまじえず、メッセンジャーの価値観のありのままを、そういうものだと理解して、共感できるところは共感するというアートの形をとるからこそ生まれる多様性が、きっと、菅原さんの言葉を借りると「足し算の発想」につながるのだろう。
ここには、忘れてはいけない、大切な事実があります。
でも、忘れることができるのも、人間の大切な力です。
時がたつにつれその両者を発展的に昇華させ、一つの解釈にたどりつくことができるのもまた、人間の持つ素晴らしい可能性だと思います。
すべてのいのちに、意義のある素晴らしい理解ができる日が来ることを、このミュージアムは示唆しているような気がしました。
そんなことを思いながらも、帰ってくる途中、何かスッキリとしない、もやもやとした思いが頭を離れず、一晩ゆっくり考えてみました。
この、いのちのミュージアムは、これで完成ではないような気がして。
このコンセプトなら、被害者のみがメッセンジャーと限定はしないはず。
しかしこのテーマの重さだと、存命の加害者をメッセンジャーとするのは、社会的に荷が重過ぎるか。。
そう思って調べたら、いのちのミュージアムが入る旧百草台小学校の建物の1階には、保護司会のサポートセンターも入っていて、いのちのミュージアムとの交流もあり、加害者側と被害者側、それぞれの気持ちに歩み寄ろうという試みが実際にされているそうです。
なるほど!すごくすっきり。
ということは、いのちのミュージアム内か、館内の別のコーナーに、人の命を奪うことになってしまった人のメッセージを主役としたアートが登場する日も、いつか来るようになるかもしれない。そうなったら、本当にすごいなぁ。。
すみません、ちょっと妄想が過ぎましたが、重いテーマをあつかっているにもかかわらず、その重さで人を押しつぶすことなく寄り添う、そんなミュージアムの雰囲気に、無限の多様性と広がりを、思わず感じてしまいました。
学校の授業や企業の研修でも訪れるかたが多いそうですが、ぜひ次は子供をつれて来たい、そして僕自身も何かあったらまた来たい、と思います。
うちの店から20~30分くらいで行ける場所なので、ぜひ行ってみてください!

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