ダイジェスト Vol.10
あんなこと、こんなことで
ゴルファーズダイジェストのVOL.10、フェーズ1の最終回は、特別編をお送りする。
フォト&リポートは、ワタクシ、オグラ。 ゴルファーは、二三味(にざみ)珈琲の二三味葉子さん。 このスピニングガレージのサイトをご覧になっている方は、すでにお馴染みだろう。 スタッフのブログや、オグラのFGXストーリーにも登場している方だ。
いつだったか、スピニングの店長、田中さんから「葉子さんで、ゴルファーズダイジェストを」といわれて、なんとなくオッケーを出してしまったオグラは、昨年二度も二三味を訪ねているのに、なお聞きたいことがあってこの5月にも行って、それが三度になってしまったことをお伝えしておく。 理由は、これをお読みいただければ、きっと分かっていただけるものと思う。
●二三味は奥能登、木ノ浦海岸●
木ノ浦海岸は、能登半島の外浦、日本海に向いた小さな入江の小さな海岸である。 半島の突端に近く、まさに奥能登。国道はここまでは行かずにショートカットするから、海岸沿いに走る石川県道28号線が最寄りの主要道。 といって、頻繁にクルマが通るというわけでもない。 もちろん、人も通らない。辺鄙(へんぴ)も辺鄙、いわば最果てだ。 なのに、こんなところなのに、コーヒー豆の焙煎工場がある。 二三味珈琲shop舟小屋だ。 その所在地を正確にいえば、石川県珠洲市折戸町木の浦ハ-99となる。
二三味珈琲は、カフェも持つ。コチラは珠洲市でも富山湾に面した内浦、飯田町の、しかも国道249号線沿いにある。 元酒類卸業の事務所兼倉庫を改造したというそこは、その古びた感じを残しつつ、新たに和モダンといった感覚の店舗を加えて、一種独特の雰囲気を醸し出す空間となっている。
住所は、飯田町7-30ー1。 街中だ。
木ノ浦海岸の、元は舟小屋という小さな焙煎工場の持ち主は、二三味珈琲の代表である二三味葉子さん。もちろん、飯田町にあるカフェのオーナーでもある。 会ってみれば分かるが、素敵な女性である。
二三味珈琲が全国的に知られるようになった要因には、まず奥能登の小さな海岸にあるという、コーヒー豆の焙煎工場としては通常では考えられない特異なロケーションがあるといえそうだ。 しかも、その焙煎工場は、その昔葉子さんのおじいさんが使っていたという舟小屋。 なぜ、こんなところで? という疑問が、自然に湧いてくるからだ。
これには、長い長い物語がある。
●「パティシエになるしかない!」●
「中学2年ぐらいだったと思うんですけど、テレビで、ウェディングケーキにクリームでバラの花を絞ってるおじいちゃんを見て、電流が走ったというか、これになるーって家族に宣言したんです」
時代は、これからバブルに向かおうという妙な高揚感があった時代で、田舎はダメだとされていた時代。 そんな背景もあって、“夢見る少女”はパティシエを目指し、地元を離れて大阪の製菓学校に入学する。 卒業後は、憧れていた東京・世田谷の有名菓子店、マルメゾンに就職し、そこで4年間修行する。
「ケーキ屋さんになりたいと思ってた4年間でしたけど、後半の2年間は焼き菓子を担当させてもらいました。 焼き菓子って焼いたらそれで終了。 それがとても魅力的でした」
葉子さんは一旦珠洲に戻って、地元でケーキ屋さんができないものかと思案。 しかし、現状では不可能という結論が出て、結局3カ月ほどをボンヤリと過ごす。 そして、お姉様に誘われるままに、金沢のパン屋さんのカフェで1年間働くことになる。
「この時ですね。ケーキ屋さんをやるにしても、美味しいコーヒーがあるともっといいかもしれないって考え始めたのは。 美味しいケーキ屋さんはありますよね。美味しいコーヒー屋さんもあります。 でも、その両方って、なかなかない。ヨーシ、次に目指すのはこれだと思って、猛烈にコーヒーの勉強がしたくなったんです」一念発起で再び上京し、幸運にも、珈琲工房HORIGUCHIに職を得る。「ケーキが焼けるということで入社させてもらったんですけど、焙煎を教えて欲しいとお願いしていたのに、最初の2年間は接客や喫茶業務ばかりで、少しイライラしてました」
「ですけど、この最初の2年間が、いまになってとても役立っているように思います。 その時の味の記憶が、コーヒーを焙煎するのにスゴーク役立ってる。 なにが美味しい味で、だめな味か、ということが、すべて舌に記憶されていたんです」
こうした長い修行の時期を過ごし、葉子さんはいよいよ独立を考え始める。 ただ、東京で始めるのは、かなりハードルが高かった。なんにしても、すべてが高い。 だったら、帰れるところといったら珠洲しかないから、珠洲で始めるか。 でも、それで将来の見込みはあるのか。 両方で出店の可能性を探りつつ、アレコレ思い悩んで、やがて八方塞がりの状態に陥ってしまったという。
それでも、気持ちはなんとなく、やるなら珠洲でという方向に傾いてきたそうだ。 というのは、初夏、7月に、地元に戻った時、それまでは自覚しなかった田舎のよさ、自身が解放される、そこにいてとても気分がいいことに気がついたからだ。 きれいな景色に、清んだ空気。 そこで育ったから、当たり前のように思っていたことが、実は貴重なものだったことが分かったのである。 都会ではどこか肩肘張ってしまうのに、ここでは、身体がとてもラク。 ほぐれる感じがある。
「そんなことを感じてたんですけど、出店は無理かなとも考えてたんです。 どうしようかなって、落ち込んでましたね。 でもね、母方の祖母の家になにかの用事で行ってて、窓の外の景色を眺めていたら、まるで映画のような話なんですけど、目の前に一羽の鳶が飛んできて、サーッと海岸の方に下りていったんですよ。 で、その時に、舟小屋が見えたんです。 アッ、これだ、ここでいいじゃないと思って、すぐに祖母に頼んだんです、貸してって。 祖母はなにがなんだか分からなかったでしょうけど、使っていいといってくれたんです」
●あんなこと、こんなことで●
窓が落ちているなどボロボロだった舟小屋をそこそこに修復して、焙煎器を入れ、焙煎工場としてスタートしたのは、平成13年、2001年5月のことだ。 葉子さん、29歳。
友人に「ここに焙煎工場を造る」というと、ほとんど「ここは、いかんよ」との反応だったそうだ。 それもそのはず。木ノ浦海岸が賑わうのは、夏の短い期間だけで、雪に閉ざされる冬はもちろん、春にしても秋にしても人が押し寄せるというところではない。 コーヒー豆を売るというからには、一応は客商売。まったくといっていいほど人が通らないところに、焙煎工場を開いてどうするのか? 誰もが、数カ月を経ずして閉めることになることを予想したのだろう。
「私は、でも、決死の覚悟でというわけじゃなかったんですよ。 あんなこと、こんなことで、どうにかなればいいな、ぐらい。 ひとりだし、ダメだったらダメで、ケーキ職人としてのウデもあるし、失敗したら失敗したでいいや、笑っちゃえ、と。 とりあえず、私の人生、ここからスタートだ、と思ってました」
漠然としてではあるが、最果ての木ノ浦海岸というロケーションが、もしかしたら注目されるかもしれないという思いもあった。 時代はちょうど、田舎ブームが盛り上がって、「田舎=素敵」という図式が成り立ち始めていた時代。 奥能登にあることが、むしろ関心を持ってもらえる材料になるかもしれない。 旅行雑誌に取り上げてもらえるかもしれない。葉子さんはこう見えて、案外、戦略家なのかもしれない。
ラッキーだったのは、葉子さんにはたくさんのサポーターがいたことだった。 たとえば、この小さな焙煎工場のネーミングをどうしようかと考えていた時に、“二三味珈琲”がいいとと強く推してくれ、そのロゴと看板のデザインを勝手にしてくれたのは、友人のひとり。
「二三味というのは、私にとっては名字ですから、別になんと思ってなかったんですけど、その友人にいわせると、コーヒー屋さんの名前としてはいいってことで。 意味ありげで、なんかいいって(笑)。看板には、舟小屋の文字も入れてくれて……」
たとえば、以前務めていた東京は成城のマルメゾンが葉子さんの焙煎工場オープンを聞いて、コーヒーの取引を約束してくれたこと。 いまでこそ、業販の売り上げパーセンテージは少なくなっているものの、オープン当初から一般の人に売れるわけもなく、安定した受注が期待できるマルメゾンの存在は大きかったに違いない。 葉子さんは、いまもなお感謝している。
奥能登の木ノ浦海岸に生まれた小さな小さなコーヒー豆の焙煎工場は、その後珈琲好きの間では、よく知られた存在となる。 旅行雑誌に採り上げられたり、それに興味を持って訪ねた人達が自身のブログで紹介するなど、次第に支持の輪は広がっていく。
もちろん、そこには、木ノ浦海岸というロケーションのよさもあった。 しかし、最大の要因はなんといっても、葉子さんが焙煎したコーヒー豆がコーヒー通をうならせるほど美味だったからだ。 でなければ、こんなに厚い支持を受けたりはしない。 ブームであったとしたら、一過性のものに終わっているはずなのである。
そして、葉子さんはついに2008年7月、お姉様とともに念願のカフェをオープンさせる。 ここでは、もちろん、二三味珈琲が焙煎したコーヒーを出すばかりではなく、自家製のケーキも提供する。 これでようやく、美味しいケーキに、美味しいコーヒーの店という葉子さんの夢は、本当に実現することになる。
「私がカフェまで作れてしまったのは、私が頑張ったというより、時代と人に恵まれたからだと思うんですね。 パティシエもそうですし、それまで見向きもされなかった田舎に時代の風が吹いたというか、なんとなく巡り合わせのよさを感じますね。 それと、周りの友人と家族です。 私の気づかなかったことを教えてくれて、支えてくれて……。 協力をいただきました。 ここまでこれたというのは、それしか考えられません。 みんなの協力なしではここまでできませんでした。 なにしろ、こんな私ですから(笑)」
葉子さんには、いま、コーヒー豆の焙煎職人という顔と、パティシエ(菓子職人)という顔を持つ。 さらにいえば、素顔はダンナとともにふたりの野生児を育てるママ。 ただ、どの顔にしてもどこかを作っているような、気張っている印象はまったくない。 あくまでも、自然体である。 驚くほど、自然体なのである。
●ゴルフは’90年式の4ドアMT●
ゴルフは、スピニングガレージから購入した。 上の子が生まれようという時で、それまで乗っていた軽をやめてなにかに買い換えようという時。 ダンナのヘビーデューティ4WDに、赤ん坊を乗せるわけにもいかないだろうという判断だった。 そこで手に取った中古車雑誌で見つけてしまったのが、ゴルフ2。
「ゴルフのことはなにも知らなかったんです。
ただ、なにか惹かれるものがあって。それで、パソコンで調べてみたら、ゴルフ2で検索すると、最初に出てくるのがスピニングガレージじゃないですか。 雑誌でも見たのは濃紺のメタリックで、色もいいなと思ってましたから、電話しちゃったんですね。そしたら、スピニングの田中さんから手書きのお手紙をいただいちゃったりして。ダンナもいいんじゃないというんで、買っちゃいました。 納車が上の子を産んだ日の翌日でしたから、もう4年、乗ってますね」
葉子さんのゴルフは、こういってはなんだが、いつ見ても汚れている。 それはむしろ、生活のためのクルマであり、毎日の足として実用に供していることの証し。 野生児兄弟のご送迎や、木ノ浦の舟小屋から飯田町のカフェに、焙煎したコーヒー豆を運んだりしている。 ご実家は農家だから、畑や田んぼの畦道に踏み入れたりすることもある。 ゴルフだからといって、特別扱いはしていないのだ。 サクサクと使われている。
テキスト横いっぱい
いま流行りの言葉でいえば、葉子さんのライフスタイルは、ロハス的ということになるかもしれない。 ゴルフ2に乗り続けるというのもそうであるし、いま長期計画で取り組んでいるご自宅のリフォームもそう。 それは元保育園。 その大きさ、広さを活かして、葉子さんとダンナは、使いやすいように、住みやすいように、そして野生児達が健康にのびのびと育つような空間作りを目指している。 スクラップ&ビルドではなく、いまあるものを持続可能なものとして再生し、使っていく。 いい感じではないか。
飾り気のない葉子さんには、飾り気のないゴルフ2がよく似合う。 共通するのは、余計なものをそぎ落として、本当に必要で、重要なものだけをシッカリと捉まえるというところ。 “夢見る少女”がアレコレ迷いながら、悩みながら、それでもパティシエになって、カフェのオーナーになるという夢を実現できたのは、なにが大切であるかを見極める目が、短くはない修行の期間に磨かれ、研ぎ澄まされてきたからではないだろうか。 決して、時代と人に恵まれただけではないと思う。