ダイジェスト Vol.6
門
どこまでも果てしなく続くと思われるような漆黒の暗闇の中で、突如としてその暗がりを切り裂くように真っ青な閃光が2筋煌めいた。「ああ、HIDだな」 文明は、 咄嗟にそう思った。その2つの冷たい光をただぼんやりと見詰めていると、今度は光の後ろから日に焼けた 茶褐色の円盤の上に、3本の棒がクルクルと回転している巨大な物体が眼前に現れた。最初はただ何となく回転を続ける3本の棒を眺めていたが、その回転に規則性のあることに気がつき、一生懸命に考えを巡らせてみたが、平生 のように頭の回転がうまくいかないことに苛立ちを感じていた。考えが纏まりかけると円盤は自分からすうっと遠のいてゆき、考えをやめると元のごとく眼前で3本の棒が規則的に回転を繰り返していた。そんな事を繰り返している内に、文明の頭に判然とした発見が浮かんだ。「これだ」と思った瞬間、2筋の光もクルクルと回転する棒を載せた円盤もふいっとどこかへ消えていってしまった。
眠っていた目を開けると、穏やかな日の光が窓から差し込み、春の到来を告げていた。清々しい朝の空気を、胸一杯に吸い込んだものの、文明の頭はまだどこか混沌としていた。確かに、素晴らしい発見をしたという確信があった。だが、その発見が一体何だったのかがどうしても思い出せない。ただ、その発見が自分の収集しているヴィンテージの腕時計のことであったことだけは、鮮明に覚えている。文明は、物に対する 執着は人一倍あることを自覚しながらも、お金さえ出せば簡単に手に入るような物には興味を持たない男だ。それでも、昔はロレックスやオメガにお金を注ぎ込み、所有する喜びに 歓喜していた頃もあったが、ある時を境に価値観ががらっと変わってしまった。そうして、所有していた腕時計のことごとくを惜しみなく売り払ってしまった。それ以来、一期一会の出会いを大切にするかのごとく、ヴィンテージの腕時計を集め始めたのである。
文明は、 飽きることなく目を眠 っては、昨夜の大発見について想いを巡らせていたが、やがて雲を掴むようなことだと思い直し、ベッドの上に半身を起こした。そして、昨夜の酒がまだ残っているんだろうぐらいに思い直した。昨夜は、文明の整骨院の患者さんを集めて定例の「ワイン会」 を催した。この日のために用意し、ワインセラーに保管してあったワインと、自ら腕をふるったアペタイザーを患者さんと談笑しながら、文明も楽しい時間にすっかり身を委ね、したたかに呑んで喰ったのである。
パンの焼ける匂いを嗅いで、空腹を感じた文明は、食卓に座を占めるとほんのり焦げ目の付いたトーストのバターの香を楽しんだ。すっかり腹を満たすと、いそいそと出勤の準備を始める。濃いオリーブ色のミリタリーパンツを穿いてから、ジャケットへと手を伸ばす。10着は下らないライダースジャケットを押しやり、アーペーセーのレザージャケットを手に取り、一度は 袖を通したものの、やっぱり思い直してオーダーメイドで仕上げたイタリー製のレザージャケットを探し始めた。しばらく探してみて、ああ、あのジャケットは仕事場に置いてあるんだということに気がつき、かわりにY’sのジャケットに身を包んだ。
レザーのジャケットやバッグは、気に入ったものを買い求めていった結果、今では相当のコレクションとなっている。ただ、彼の結果としてコレクションとなっている対象は、身に付けたり、使ったりして喜びを 享受できる物に限定されているところが特徴である。
仕事場へは、妻の運転する車で通っている。窓の外では、桜がほんのりとその 花弁かべんを開き始め、春の到来を告げていた。寒さに身を屈めていたいた人々も、ようやく暖かくなってきた春の気配に、どこかうきうきと浮かれた感情を隠しきれない様子が見て取れる。文明の職場は、江東区の南砂にある江東整骨院で、彼自身が独立し開業した整骨院である。業界で石井文明と言えば、かなりの名の知れた存在で、彼の元にやってくる患者さんも他県からわざわざやって来る人も少なくない。文明が行うのは、三大整体の内の 姿勢均整法と呼ばれるものである。これは、十二種体型学といって、人の体型を十二種類に分けて体型分析した上で、体型調整を行うもので、例えば首が回らないだとか、肩が痛いだとか、腕が上がらないといった症状に対し、体のどこに歪みがあってその症状がでているのかを判断し、治療する。故に、痛みがある部位と治療を行う場所が同一とは限らないのである。
端的にそれを表しているのが、気質異常で、首の捻挫や手術痕などをかばって動いていると、体の他の場所に悪影響がでる。逆に言えば、治療部位さえ見抜けば、その場所にはりやきゅうなどを用いた治療や、痛みが強い場合などはスパイラルテーピングを施すのである。このスパイラルテーピングは、花粉症にまで効くという。姿勢均整法の特徴は、カイロプラクティックが体の歪みと逆方向に力を加えるのに対し、歪みが生じている方向にさらに歪めてやり体が自然と元の状態に戻ろうとする力を利用してやるのだ。文明は、保険を使った施術も行っているが、その内容が濃く丁寧なので、待合室は常に多くの人で埋め尽くされている。
文明の前には、多くの様々な門が立ちはだかっている。中には、もう既に開け放った門もある。まだ開けない門もある。いつか開けてやろうと思う門もある。ただ、一度その門戸を開け放った以上、どんどんとその中へと突き進み、その中にあるありとあらゆる物を自分自身の五感で感じ、そうしてその全体像を捕まえないと気が済まない性質である。一旦足を踏み入れた以上は、己の納得のいくまで追求することに寧ろ喜びすら感じるのである。だからこそ、仕事でも常に探求心を失わず、最新の治療法を積極的に取り入れ、結果として患者さんが喜ぶという良好なスパイラルが生まれるのである。それは、趣味の世界とて同然である。
最近では、アナログのレコードに凝り出した。知人からたまたま譲り受けたレコードプレーヤーが引き金となって、アンプとボーズのスピーカーを 揃えた。そして、余暇を見つけてはこつこつとレコードを買い集め、半年で800枚もの枚数を集めてしまった。今では、患者さんの引けた昼休みに、わざわざ八丁堀まで足を運んで買ってくる、全世界中でとれるコーヒー豆の内でおよそ2%しかランクされないというスペシャリティのコーヒー豆をきこきこと手動のミルで碾き、フレンチプレスで淹
れた至極の一杯を手に、アナログならではの味わい深いサウンドを楽しみ一人悦に入っている。
40歳になったら、4台の車を持ちたい、それが文明の夢だった。幼き日に見たサンダーバードのごとく、一号、二号、三号、四号と車を揃(そろ)えたら、どんなに痛快だろう。50歳を目前に控えた現在、長年の夢は現実のものとなり、ガレージには四号機までが収められている。一台は、新車で購入した94年式のベントで、この車には相当の手を加えた。
メルセデスのガンメタリックにオールペンし、エンジンはコックスのSZ3にチューニング。前後のライト類も何回交換したかわからない。ホイールも6セットは履き替えている。さらに、フロントシートをレカロに換装した上で、内装をブラックのレザーにレッドのステッチで張り替えた。だが、それも現在はブラック一色のレザーで再度張り直されている。センタークラスター下部の小物入れの上側に追加された3連メーターの台座まで革張りにするというこりようだ。ショックとスプリングも3回は変更している。また、タコ足も含め触媒以外はすべて変更し、その結果、エンジンチューニングとのマッチングの問題で低回転域でのトルクが薄くなってしまい、7万円でゴルフⅢを1台購入しATからMTへと変更している。
熱しやすく冷めやすい 輩は掃いて捨てるほどいるが、こと文明の場合、熱しやすく冷めにくいのである。己の中に独自の哲学のようなものを持っており、それは 丁度ファッションのトレンドが変遷するがごとく、常に進化し続けているのである。レザーのジャケットが着込む内におのずと体型に合わせて伸び縮みして体にぴったりとフィットするようになるように、車に対してもそういった育てる楽しみを味わっているのだ。次に81年式のボルボ240のセダンを購入。この車も内装をブラウンのレザーで張り替えている。そして、79年式の244GLを購入してきて前後に大きく張り出したバンパーと角形のグリル、フロントフェンダーを移植し、実のところ240なのだが見た目は244風に装いを改め乗っている。3台目は、ゴルフⅡの特別仕様車であるマディソンだ。この車も一通りモディファイを施し、最終的にモール類まで含めてボディ全体をグリーンに塗り替えた。だが、仕上がってきたマディソンを見て、正直文明は失敗したと思った。ボディ全体が緑色に塗られてみると、どうもそれが虫のように感ぜられた。そこで、マディソンの出番は自ずと減ってしまった。 文明にとって、車趣味は、車を購入する時が一番楽しい。「こんなボロボロの車、一体誰が買うんだ」と思わせるような車でも、それを買ってありとあらゆる場所に手を入れ、キレイに仕上げてお洒落に乗るのが彼独自の 流儀だ。しかも、車を買うという段階で既に完成予想図は文明の頭の中にできあがっていて、いざ車が手元に来ると3ヶ月くらいで車を仕上げてしまう。だが、 奇をてらったようなモディファイは決してしない。
あくまでベース車の良い所はそのまま残しつつ、現代流にアップデートさせるのが文明流である。そのため、時折スピニングガレージに赴いては、店長の田中氏相手に「こういうドレスアップってありかな?」 だとか、「自然に見えるかな?」 といった質問を投げかけることも少なくない。ある日、もう乗らないからとマディソンをスピニングガレージに売りに行った。そしてそこで91年式のゴルフⅡのCLIを発見し、即購入してしまった。この車は、右ハンドルのMT車で、走行距離も1万9千キロと少なく、かなり程度の良い個体だった。そこで、早速文明は 計画を始めた。どうも、ショックが抜けているせいか、車がふらつき 蛇行する。そこで、ショックをビルシュタインに、スプリングをアイバッハに交換した。 後は、頭の中の完成図に従って、グリルを変え、フロントとリアのライト類も変えて、フロントシートをコラードのものに付け替えた。リップスポイラーとサイドスカートはGTIのものだ。ストラットタワーバーとロアバーの追加、アーシング、タロックスのブレーキディスクに、リアブレーキはGTIのディスク式に変更。排気系は、全部を交換すると低速域のトルクが細くなるので、リアサイレンサーのみを交換。MSデザインのハイマウントストップランプ付のリアスポイラーは、在庫で残っていた最後の1個を入手。その上で、内装をブラックレザーにブルーのステッチで張り替えた。ステアリングとシフトレバーのブーツも同時に同じ仕様にした。外装は、ゴルフⅡの純正色のガンメタリックに塗り替えた。「右ハンドル、MT用のフットレストは生産中止」と田中氏に言われ、スピニングガレージの2階をごそごそと漁っていたら、お目当ての品を見事に発見し、それもその場で付けてもらった。操作系も一通り変更しているが、MTのシフトノブだけはノーマルのままである。
社外品のシフトノブはシャフトに樹脂を被せ横からイモネジで固定するものが大半だ。文明に言わせると「あれはダイレクト感に欠ける」ので嫌なのだ。そこで、スピニングガレージで、ねじ込み式のシフトノブを作ってくれないかなあと、切に願っている。別段サーフィンやスノーボードをやるわけではないが、リアウインドーにストゥーシーのステッカーが貼ってあるあたりが、 洒落者の文明らしい。 4台目は、2ドアのジェッタである。これは、正規で1年間だけ800台の限定車として売られたものだ。左ハンドルのAT車のみ日本に導入されたが、文明が購入する際には既にMTに換装されていた。おまけに、エンジンもヘッドがチューニング済みだった。だが、この車は、相当ぼろい個体で、価格も30万円と安価だった。ジェッタを購入するや否や、例によって一気に蘇生作戦に取りかかった。まずは、フロアカーペットをブルーで張り替え、天井も張り直した。フロントシートをGTI用に変更し、内装をブラックのビニールレザーで張り替え、外装はVWの純正色のブルーに塗り替えた。この車もグリルや、前後のライトを交換し、見た目のアップデートを図っている。
フロントスポイラーは、ツェンダー製で、サイドスカートとリアスポイラーはコックスのものを選択。このコックスのリアスポイラーも最後の1個を発見し購入した。足回りは、ビルシュタインで、ブレーキローターはATEに交換。リアブレーキはこれまたGTI用のディスク式だ。8千円で手に入れたABTのステアリングは、3万円かけて新しいレザーに張り替えた。
安く手に入れたものでも、お金をかけて自分流にアレンジするのも文明流だ。rondellのホイールは、4本セットで2万円で購入。それを、ホイール修正とブロンズに塗装するために8万円でショップに発注したが、ショップに完全に赤字で二度とやりたくないと言わしめた経緯がある。
ボーズのスピーカーと、オーディオのヘッドユニットはスピニングガレージで発掘して、ついでにトレードインスピーカーも付けてもらった。ドアノブは、ゴルフⅢの物を付けた。これは、ゴルフⅡのようにノブの中にあるレバーを引くタイプではなく、ドアノブ自体を引っ張るタイプだ。文明は、物を買うのが大好きだ。だけれど、ただ闇雲には買わない。自分の琴線に触れる出物をじっくりと探す。しかも、買い物上手で、何でもきっと安く買ってきてしまう。車のパーツももちろんそうだが、時計のコレクションを入れ替えた際も、所有していたロレックスやオメガは相当のプレミアが付いており、購入した価格の何倍にもなる値で売れた。
そして、その軍資金を元にヴィンテージウォッチを購入したのである。
レコードもこれまたしかりで、1枚数百円で買ってくる。そして膨大なコレクションを築いてしまう。実際、ここまで買い物上手なのも、その探求心と情熱の賜物なのである。
4台の車の内、3台はマンションの1階にあるパレットタイプの2階建て式の駐車場に止めてある。ただ、この駐車場がちょっと変わっていて、1階と2階のパレット式ではなく、地下と1階のパレット式なのである。通常、文明の愛車は地下に潜っていて、いざ出陣となると地下から地上へとせり上がってくるのだ。文明は、その様態がいかにも、サンダーバードのようで面白いと思っている。実際、3台分すべてを上昇させると、それが全て自分の車なのだから、非常に愉快である。 近頃は、仕事場からの帰りは電車を利用している。それは、少しでも歩く事で、健康に配慮しているからである。実際に、ここ数ヶ月で体重が5、6キロ減った。今日も、てくてくと歩いて帰宅している。文明は、ゴルフⅡが好きだ。 それは、丸目2灯のヘッドライトが可愛らしいからである。一時は、同じ理由からミニやアウトビアンキにも興味を持った。だが、信頼性が高く、走りが安定していて、実用に耐えうる車と考えたときに、最後に残ったのはゴルフⅡだけだった。
ゴルフⅡに乗っていると、車はこの時代のもので十分実用的だと思わさせられる。かくかくと角張ったスタイリングも、実に良いと思っている。しかも、100万円位で徹底的に手を入れて、自分好みの車に仕立て上げられるという点に至っては、大変愉快だと思っている。春だとはいえ、まだ朝と晩はかなり寒い。文明は、ジャケットの前を閉めながら、次は、ゴルフⅡの前期型のGXを、オリジナルのまま乗るのもいいなと思った。6本グリル、モール付のバンパー、三角窓、下向きのマフラー、鉄チンのホイールとひとしきりディテールを思い出して、やっぱりいいと思った。そうして、新たな期待を胸に、軽い足取りで自宅へと向かった。