2012年夏、日野市議会議員にしてスピニングの常連さん、菅原直志氏と一緒に、大震災から1年たった気仙沼と陸前高田の、二人のゴルフ2乗りのもとを訪ねました。 
帰京後、その探訪取材記事でライターデビューとなる菅原さんに、記事公開を前に、対談の形で背景や、菅原さんの心の中にあったものを語ってもらいましたので、探訪取材の記事とあわせて、お読みになっていただけたらと思います。 
対談会場は、菅原さんと縁の深い、いのちのミュージアム。  タブーのごとく、皆が正面きって扱おうとしないテーマに、菅原さんと二人であえて切り込んでいきます。 

・田中延和(T) ・菅原直志(S)

■S あの震災は、僕にとってなんだったのか。 それは一言で言うと、少年時代の大事な物をごっそり持っていかれたという感じです。 僕は岩手の一の関の出身ですから、直接的に生まれ育った所に被害があったわけではないけれども、母方の実家が気仙沼で、漁師をしていたわけです。 ホタテとか、カキ等の養殖がメインの漁師です。 幼い頃から、年に何度もその気仙沼の漁師町に行って遊んでいました。 その遊んでいた所が津波で被害にあったので、少年時代の何かがごっそり持っていかれたという感じです。 ただ、被災地に今も住んでる人達、その当時も住んでいた人達の感覚ともちょっと違うのかもしれない。 僕のノスタルジーの部分が持っていかれたんだっていう部分では、ちょっと違うかもしれないけど、いずれ僕にとっての震災っていうのは、そういうものかなって思いました。 それと、あの震災があって10日間、親戚と連絡が取れなかったんです。 そうすると、毎日毎日連絡が取れない状況を重ねるにつれ、どこかに覚悟をしなきゃいけない時が迫って、その覚悟を一日一日強くしていくのは、とても辛かったですね。 結局、母方の叔父は今でも行方不明です。 一応手続き的には、死亡認定を市役所に出して亡くなったという事になっています。 どういう状況だったかというと、あの地震の直後に、沖出しという船を沖に出す作業をしていたんです。 漁師達は、船を岸壁に着けていると壊れてしまうので、津波をやり過ごす為に、一時的に船を沖まで移動させます。 その沖出しで、うまく津波が越えられるか、越えられないかは、時の運。 沖に出た船っていうのは、二晩位戻って来ないそうです。 だからあの時も、家族も無事に生きてるのか、もう津波で持っていかれたのか、二日間程解らなかったみたいですね。 そして未だに帰って来ないという事です。 うちの叔父は、時の運で居なくなってしまった。 だけど、なんだろう、いまひとつ実感がないんです。 亡くなった顔も見ていないし、葬式にも行けなかったんで。 でも現実に、叔父は帰って来なかった。 

■T 僕が、なんで菅原さんと今回の取材に行きたかったと言うと、前に大木先生の所に納車に行った際、被災した方の話を聞かせてもらったり、被害を受けた街の写真も撮りました。 そこで思ったのが、改めて取材をするにあたって、現地に行ってただ書く、ただ撮るだけだと、大事な何かが足りない気がする。 今回の震災に、もっと近い人と言うか、必然性がありそうな人と行きたいと思って。 東日本大震災と言いながら、本当にキツイけれども凄く現実と向き合ってる感覚と、こっちの感傷的な取り扱われ方とは、少し違うじゃないですか。 その差があるまま、こっちの人が行って記事にすると、何か違うものにしかならないと思ったんです。 っで、大木先生って、まあ、あのとおりの人なんで。 来た人に、そのまんまを、そのまんま伝えるっていう事をひたすらやっているんですよね。 だからそれがすんなり入って、それを肌感覚で書いてくれる人を考えたんですよ。 それで東北出身で、様々な活動をしている菅原さんに頼んだら面白いかなって思ったんですよね。

■S 僕はなんでも面白がるので、最初にこの話をもらった時は、『いいね、面白そう。 』って思いました。 そして僕が行く事によって、うまく何かが伝わればなと思いました。 被災地に行ったのは、今回田中さんと一緒に行ったので、12回目になりました。 今まで被災地には、ボランティアで行っていたんですけど、今回初めて人に会いに行きました。 僕は、今回の震災で改めて思った事があるんです。 それは、田中さんの話の中にもありましたけど、やっぱり東北人でしか共有出来ない部分が、少しあるのかなって事ですね。 それはテレビを見ていて、東北の人達は二言目には、『大丈夫。 大丈夫。 私は大丈夫。 私達は大丈夫。 』って、一生懸命言っていたと思います。 そこで思い起こすと、阪神大震災の時に関西の人達は、大丈夫とかそういうメッセージはではなく、『しんどい。 』ってメッセージを出していた気がします。 東北の人は、しんどいはずなのに、『大丈夫。 』ってメッセージを出すんです。 どっちが正しいとかそういうのではなく、これは文化的な所があるのかなと思います。 

■T その『しんどい。 』と『大丈夫。 』を地域性って言う人や、都市と農村の地域社会の在り方の違いって言う人もいますよね。 東北人でありながら、今は首都圏で活動している菅原さんには、多分その両方を理解できるのかもしれないですね。 

■S あの『大丈夫。 』って言葉の裏には、もっと大変な所があるから、そっちを見てっていうメッセージが、おそらくどこかにあるんですよ。 それは、東北の人がずっと昔からもっている文化だと思います。 自分より大変な人が必ずいて、その人達にスポットライトがあたるようにと。 まあ、とにかく人が良いわけですよね。 それと、東京の枠の中で言うと、『ありがとう。 』って声を、けっこう地域の人から受けました。 今までも、阪神大震災の被災地や、福井県のナホトカ号の重油の現場。 それに、新潟の中越沖地震の現場にも、ボランティアで行きました。 これらの時も、『行ってきます。 』って言うと、地域の人達は、『いってらっしゃい。 』って言って僕を見送ってくれた。 今回に限っては、『ありがとう。 』って言って、僕を見送ってくれたんです。 

■T 明らかに違いますね。 

■S 東京って東北人も多くて、自分は行けないけど、『代わりに行ってくれてありがとう。 』っていう事と、今回の地震が東北大震災ではなくて、東日本大震災って言われたわけですよね。 もちろん、千葉や神奈川でも被害は出たし、東京でも死者が出た。 今までは、どっか違う大阪の話、新潟の話で地震を見ていたのが、東日本大震災となって東京の人も当事者、被害者になったんです。 それと、次は自分達だぞっていう切迫したものも感じていると思います。 それらを言葉にした時に『ありがとう。 』って言葉になったんですよね。 助けるって感じよりは、私達も何かしたいって感じですね。 今回の震災で関東の人達は、今までの震災よりも、より当事者意識が高くなったんじゃないかなと思います。

■T 被災地に何度も足を運び、何か感じた事とか、もしくは、東京の人に伝えたい事とかってありますか?

■S 東京と被災地とを往復して行くなかで、復興って言葉に違和感があって。 東京では震災直後の3月中に、復興っていう言葉が言われだしているわけですよ。 たしかにそれはそうだけど、復興って今言い難いんじゃない?って思ったんです。 被災した人達が、自分達の言葉として、復興という旗を掲げるのならいいけれども、その外側にいる人間が復興っていう旗を掲げるには、掲げ方がひと手間、ひと工夫あった方が良かったのかなって。 そんな気はしましたね。 今でも、復旧してない所と復興もしてない所と、ある程度混在してるので、なんとも言い難いですよ。 

■T 当初から、復旧っていう言葉を使わずに、あえて復興って言葉を使おうとする雰囲気ってあったじゃないですか。 僕もそれに安易に乗っちゃたなって、反省する所もあるんですけど。 あれはなんだったんでしょうね?

■S 復興っていう言葉って、安心すると思うんですよ。 でも、その言葉を当事者達が言い出すんだったら、それは良いと思います。 例えば、気仙沼の復興市場とか。 ああいう感じで、当事者達やそれに近しい人達が使う事も全然良い事だし。 でもニュアンスがとても難しいですよね。 

■T 僕等は、復興する当事者ではないので、復興を支えたり、お手伝いしたり、応援とかそういう視点以上には立ち入れないし、踏み込めないですよね。 

■S 共通して被災地の人達が、抱いている感覚っていくつもあると思うんですけど、その中の一つに、忘れないでっていうメッセージはあると思うんです。 去年の8月に被災地に行った時、空き地に草が生い茂ったまま、以前何があったのかよく解らなくなっていました。 でも、そこにはずっと前から街があったわけです。 しかしそれを知らない人が行くと、何も無かった只の空き地だったと思う。 その今の風景が、その場所の風景になるわけですよ。 だからそういう焦りは、被災地の人達の中にあると思うんですよね。 忘れられちゃうんじゃないかと。 取り残されちゃうんじゃないかと。 被災地以外の人達は、復興復興って言ってて、『もう復興したの?』って言うような投げ掛けを、どうしてもしてしまう。 そうすると、自分達の被災地は、なんとも答え難いんですよね。 復興しました。 復興してません。 って二者択一みたいな感じだと答え難い。 でも、『あの震災を忘れない。 』というふうにメッセージを出せば、それぞれ個別の状況を、被災地の人達も話やすいと思う。 忘れたくないから、話を聞かせてって言えば、話もできると思う。 そっちの方が、繋がりやすいかなという感じはしますね。 復興しようというメッセージもいいけど、あの震災を忘れないようにしようというメッセージを、今、私達は出したほうがいいのかな。 そういう意味でもこの企画はとても良いと思います。 

■T 1年っていう節目があると、何か大きく変わったかのような感覚で、物事って解釈されやすいので、何か継続的に発信していく事が出来たらいいなとは思うんですけどね。 

■S アメリカに、犯罪被災者のセンターがあって、そこで1年に1回フェスティバルがあるんです。 その中の一つのキーワードが、『We Remember』私達は忘れない。 これは、非常に象徴的な言葉だと思う。 傷を負った人達は、忘れられる事が一番辛いわけですよね。 だから、僕は今回の被災地の事を、忘れないでほしいってのが最後の残すべきメッセージだと思います。 ここの、いのちのミュージアムの生命のメッセージ展も、メッセンジャー達が伝えているのは、多分同じ様なテーマで、ここに来てもらうと、『We Remember』とか『I Remember』というのが、ストレートに伝わると思うんですよね。 そこから感じた私達が、次に出会った人達、戻った社会の中で何を伝えられるかってのが勝負なわけです。 東日本の震災の現場だって、『We Remember』であり、『I Remember』それを実生活に戻った時に、どう活かしていけるか。 多分やってることは、一緒なんじゃないかと思います。

■S 田中さんはこの震災と、どんな感じでどう向き合ってきたんですか?

■T 僕は当事者ではないので、きちんとした理解はできないんじゃないかなって思っていて。 頼ってくれる人がいたら、もちろん出来るだけの事はしたいって思うんですけど。 自ら何かしようってのを、明確にイメージする事ってやっぱり難しいなって思いましたね。 それと、何か発言する事の難しさを凄く感じました。 震災ってキーワードを頻出させるのは、何かが違う気がするし、震災って言った途端に、違うイメージが固定化されるのもまた、すごく違うような気がしたり。 

■S 当事者の東北の被災者同士でも、感じ方が全員違うわけですよ。 だから、同じ感覚で共有するのは、とても難しいんですよね。 でも、皆どこか一カ所一致する所が、きっとあると思うんです。 僕はそれだけで、私の震災体験、私にとっての東日本大震災っていうのを語っても全然良いんじゃないかって思うわけですよ。 例えば、ニューヨークで震災の報道を知って、心を傷めた人がいる。 その人にとっては、それが100%の震災体験で、それは共有出来て良いと思うし、そうやって繋げていかないと、忘れちゃうんですよ。 共有出来ないって言った瞬間に、繋がりがそこで止まってしまう。 それよりも、僕は、一致点を見つけるような作業をしたいと思う。 

■T  僕がどこか行ったり、何かものを語ったりたりできるのは、やっぱり同じゴルフ2乗りの人達だけなんですよね。 そこが共有できる部分でしか、自分の感覚で発言はできないところって思うんです。 

■S いや、それは普通に凄い事だと思う。 今回取材に行った、陸前高田の大木先生、気仙沼の小野寺さん。 その二人とは、田中さんと一緒じゃないと出会えないわけですよ。 まずは、その繋がりが凄いと思った。 だって、車が無くなっても、もう一回スピニングガレージから買おうっていうね。 

■T あれは、嬉しいですよね。 震災からまだ一ヶ月経ってないのに、『あの、ご連絡が遅れてすいません。 とりあえず生きてますんで。 』って大木さんから電話がかかってきて、『まあ、ほぼ何も無くなっちゃってるんですけど。 』なんて言ってて。 それを、さらって言うのって凄いなって思いました。 想像を絶するものがある筈なのに、そういう事は相手に強要しない。 でも、同じ東北のお客さんでも、最初被害があったお客さんには、原価で物を出しますとか、譲れるもの譲りますとか、車もあげられるものあげますとか、そんな事言ってて、とりあえず足に必要な車送ったり、そんな事をちょこちょこしたんですけど。 さっきの、その当事者間の濃淡の差ってのはやっぱりあって、『自分は内陸でほぼ被害が無いから、凄い甚大な被害があった所の人に対して申し訳ない。 』そういう気持ちを聞く事もあったり、感覚が共有できる部分でしか、その人としての発言って誰しも出来ないって。 

■S 僕はそれで十分だと思うし、いいんじゃないって感じるな。 そういえば、大木さんとか小野寺さんに、車を届けに行った時って、どんな感じだったんですか?

■T まあ、基本的にこの間行った時と、雰囲気は変わらないですよ。 

■S 似たような感じで、淡々としている?

■T 淡々と、『良く来たね。 』みたいなそんな感じです。 他の地域のお客さんに届けに行った時と、何も変わらないですね。

■S ああ。 それ僕も、ちょっと思う所があって。 報道で甚大な被害ですとか、いろいろやるんだけど、実際に行って話をすると、別に普通な部分のほうが大きいんですよね。 見えない部分も、もちろんあるんだろうけど。 だから今回改めて、恥ずかしいなと思ってる部分があって。 僕自信が、被災地はこうだろうとか、仕事を再開するにあたって、会社を再興するのには、よっぽど強い思いがあったんだろうとか。 僕自信が、そういうステレオタイプを持っていたわけですよ。 それで実際に会ってみると、『いやいや、食べる為に会社を再興しなきゃいけないんですよ。 』とか、『仕事しないと、うちみたいな中小企業は駄目なんですよ。 大きい所と違うから。 』みたいな話を聞くと、こっちが肩肘張って気合い入れて、ステレオタイプを持ってあたるほうが、ちょっと滑稽な感じがしましたよね。 

■T そうですね。 なんらかの特別な意味付けっていうものを、欲してる場合と、欲してない場合がありますもんね。 

■S ええ。 それって、被災地から帰って来た時に、『どうだった?』って、東京の人に聞かれるわけですよね。 その時に、『普通だった。 』ってやっぱり答え難いわけですよ。 それで、一番トピックとなる強烈な話をしちゃうわけですよ。 『どうだった?』って聞かれたら。 『いやあ、こんな酷い事があってさ。 』っていうふうに。 見た事の一番ポイントとなる事しか、伝えられない。 

■T でも、本当はそういう事をベースにしながらも、普通でいる事の凄さや、力強さみたいな事のほうが、伝えたい事だったりしますよね。 

■S でもそれは、伝えるほうも伝え難いし、聞いた方も、『えっ?普通だったの?』って感じで。 いやいや、普通が凄いんだよっていう。 

■T 小野寺さんも、いち早く始めたから他の人よりも、より高い思いとか、志とか、強さみたいなものが、あったかの様なコメントを求められても、そんな事言いたくないんだと思うんですよね。 多分、凄い這うような努力をして、あそこまで来てる筈なんだけど、それを言うのはまだ違うって思ってるんでしょうね。 周りで仕事を再開出来てない人もいるし、自分はラッキーだったっていうふうに言ってましたしね。 

■S その普通である事とか、平穏という言葉もあたらないかもしれないけど、日々の生活の凄みみたいなものかな。 それが、まだ伝わる時期じゃないのかもしれないですよね。 

■T そうですね。 逆にそれが、変な解釈で伝わる危うさもありますしね。

■S あんなに車が壊れて、壊れた車が積み上げられていたわけですよね。 ああいう画って、車屋さんとして感ずる所があるんですかね?

■T ここはやっぱり、心が傷みますよねって本来は言うべき所ですけど、僕はそういう風には感じないですね。 冷静に考えて、車がああなると、再生するのは無理なんですよ。 ボコボコですし、塩水浸かっちゃってるし。 いくら思い入れがあって、手間と時間をかけたとしても、あそこまでいった車を再生するのは難しいですし。 僕、車屋なんで車がどうやって出来て、どういう時に車が車でなくなるのかっていうのが、理解が出来てる職業なんですよね。 そういう人があの状況で見ても、自然の脅威によって起こった事で、こうなってしまっているんだから、それは仕方がない。 それよりも、やっぱり誰かが乗り捨てていった車とかが、悪戯されてボコボコにされてたりとかそういう方が心が傷むんですよ。 

■S なるほどね。 

■T そこがおそらく、今回の津波で被災した当事者の人達は、あんまり感傷的なものよりも、普通に現実を見ていると思うんですよね。 その強さって、やっぱり理解出来てる部分と、理解しなきゃいけない部分ってのがあって。 まあ、その人にとってのリアルな部分だったのかもしれないですよね。 ここの、いのちのミュージアムのメッセージも多分、そこに向き合っている人しか、ここに出さないかなっていうのはちょっと感じましたね。 

■S まあでも、今日の対談の場所に、この、いのちのミュージアムを選んで下さって、とても嬉しく思っているんですよね。 田中さんからさっきも話があった様に、東北の震災の事もそうだし、ここも共通する部分もあるし。 それは多分、命の事を強烈に感ずる部分で、それをスピニングガレージが見つめるっていうのは、新鮮で面白いと思います。 車に関する人って、交通安全とか一所懸命言って下さるけど、もう一歩踏み込んだ部分を言ってないって思いがあるわけですよ。 

■T わざわざ自分の好きな車に乗るからには、その意味って皆考えてると思うんですよね。 自分がなんでこの車に乗りたいのか、自問自答する事って多分自分の人生について考える事と、比較的近い所に行くんじゃないかなって思って。 やっぱり人の命乗せて運ぶし、時には人の命を奪う物でもあるんで。 そうすると何かの機会には、やっぱり命について考えるのは、どこかでセットになる時が誰しもあるんだなって思うんですよね。 

■S このミュージアムは、さっき館長の鈴木さんからも紹介があったように、交通犯罪の被害を受けたメッセンジャーが多いけど、でも決してそれだけじゃないんです。 犯罪が憎いとか、社会がどうかとか、そういう世界とはまた別で、『つながれいのち。 』という言葉がよく使われるんですけど、命の繋がりとかを伝える場所なのかなと思っています。 亡くなった原因は、いろんなものを削いでいったらあんまり意味がない話で、じゃあ何を伝えてるのって言うと、なかなか難しいんだけど。 多分、家族が好きとか、産んでくれてありがとうとか。 死ぬ前に、もう一回世話になった人にちゃんと伝える事を伝えたいとか。 人間ってそれしか残らないかもしれないから、それの一つの表現方法が、ここの、いのちのミュージアムなのかなと思ったりもします。 僕、なんだかんだ結構ここに来るんですけど、特に何をやってるわけでもなく、ぼーっとしてる時間が多かったりしますね。 来場した方も、このメッセンジャー1人1人と対面するのは、けっこう辛くて大変なので、まあ、のんびりゆっくり。 (笑)ここに来て、家族に会いたくなったとか、そう思ってくれたら、それで十分良いんじゃないのかな。 それが、いのちのミュージアムの一つの存在かなと思います。 だからドライバーの方にもここに来てほしいし、ここに来て、交通安全を訴える事はないけど、家族に会いたいなと思ってくれれば、非常に良い事だと思いますね。 小学生とか、そんな感じの感想を書いてくれますね。 やっぱ彼等が感じるのは、かなりピュアな部分なんですよね。

■T ゴルファーズダイジェストで、前に取材を入れさせて頂いた時に、乗れるまで乗る。 乗れなくなった時に、次乗り換えるのは電気自動車だって予言してたんですよね。 

■S その通りになっちゃっいましたね。 

■T 予言通りに、リーフに行きましたね。 

■S そういえば、リーフに変えた後にね、「菅原さん、あのボロ車どうしたの?」とか皆に言われたんですよね。 ええ?皆そう思ってたの?みたいなね。(笑)

■T 普通の人は、そう思いますよね。(笑)

■S でも、それは価値観の違いだからね。 ゴルフ2は、夫婦で気に入ってた車なんですよ。だからね、ちょっとお休みをいただくという感じ。また、いつか戻ろうと思っていて。戻るのもまあ、いろんなタイミングがあるだろうから別に急がない感じかな。好きな車は、ずっと好きですからね。 

■T 何年後かに、今度ゴルフ2に戻ってくる時、菅原さんのゴルフ2にかかるメンテナンス代金を、あしながさんの寄付にあてようかなって思っていて。 

■S それじゃあ、いっぱい直さなきゃいけなくなっちゃうんだけど。(笑)

■T いっぱい直して、いっぱい寄付しましょうよ。(笑)
そんな事が出来たら、面白いかなって思います。 

■S リーフに乗って三ヶ月。 色々考えてみると、ゴルフ2の時は運転が足し算だった。 つまり基本的なベースで走るのにプラスαな部分。 あんまりガソリン使わないようにとか、なるべくエンジンに負担かけないようにとか。 それらって、車の話じゃなくてこっちのプラスαの気持ちなんですよね。 リーフは性能が良いだけに、なんとなく引き算な感じ。 100%の性能なんて、こっちはつゆしらず。 多分最後まで、リーフの最高のポテンシャルとか、すべての機能を使い切らずに終わるんでしょうね。 電子レンジとか、ケータイの機能だって、全部知らなくても十分使えるでしょ?でも、実はそれって使い方としてはマイナスですよね。 逆にアナログな物に近くなればなるほど、自分なりのアレンジがある。 これって、使い方としてはプラス。 この二極を僕は今、ゴルフとリーフの間であっち行ったりこっち行ったりしてる時間だと思う。 この事って、世の中でも意外に身近に多いですよね。

■T どうもデジタルで物を考えると、オンオフになっちゃいますよね。 そのオンオフの範囲を、物凄く細かくしていくと、アナログに近い制御ができるんでしょうけど。 結局どこまで行っても、オンオフでしかなかったりするんで、そこら辺がすごく殺伐としてしまう感じがして、生き難いなって思う時もありますよね。 

■S やっぱり、使われてる感ですよ。 使い切れてない苛立ち。 (笑)それはあるんですよね。 だから好きになれない。 買い替えちゃう。 ケータイってこんなに身近にあるのに、思い入れなくどんどん変えていくのは、どこかで使われてる感じがして、あんまり好きじゃないんでしょうね。 

■T たしかに何でもかんでも、便利にするために余計なコストを投入するのは、一見良いようでいて、実はあんまり効率が良く無いんじゃないかって思ったりしますね。 この場所もエアコンいらないですもんね。 こんな外暑いのに、中に入ると意外に過ごせますよ。 

■S そうですね。 ちょっとつらい位がちょうどいいのかもしれないですね。 これって足し算ですかね?

■T だと思いますけどね。 すべての建物に、エアコン完備しなきゃいけないみたいなのも、本当は幻想なのかもしれないですもんね。 十分この空間だったら、エアコンいらないですもんね。 

■S だから、物に対して足し算で向かえるか、引き算で向かえるかってのは、けっこう大きなアプローチの方法かもしれない。 東日本の震災に対しても、向こうにあるのが100%で、そこからこの位しか僕は関われてないって、引き算の論理でやると、やっぱ遠くなっちゃうけど。 足し算だったら、僕はこれが出来るっていうふうになるわけですよ。 そうすると、東北を愛せるようになるかもしれないし、この、いのちのミュージアムも、ここにあるのが100%で、その中の一部しか受け入れられないとかじゃなくて、ここに対する私のアプローチはこうだってなれば、それは足し算の論理になるんだから、同じ事やっても残るもの、次に繋がるものが違うかもしれませんね。 

■T そうですね。  物に対して、足し算の論理でいければ、人に対しても足し算の論理で接するのが当たり前になりますからね。 

■S この人の、ここが悪いっていうふうに見るか、この人と、こういう距離感で付き合うっていうプラスの論理もあるわけだから。 ゴルフ2が好きだった所は、やっぱそういう所かな。 故障するから嫌だとか、そんな話じゃなくて。 

■T 故障する瞬間は、凹みますけどね。 でも故障しない機械って、なかなか難しいし、それって引き算の論理ですからね。 それに、故障しない車しか乗っていない人だと、理解出来ない事が理解出来ますからね。 

■S ああ。 たしかに。 

■T 人間関係も故障しますからね。 車で故障して、故障の対処を学んでおいたら、人間関係で故障した時に、凹まないですみますからね。 (笑)

■S たしかに。 (笑)この近くに、東京賢治の学校ってフリースクールがあって。 そこは小学校1年生で担任したら、高校3年生まで担任もクラスも変わらないんですよ。 1クラス10人位で、担任が1人。 これが12年間クラス変えや、先生の変えも一切無しで持ち上がり。 

■T それ凄いですね。 

■S だから子供も逃げ場ないわけ。 もちろん先生も。 この付き合い方って、実は良いんじゃないかなって思っていて、いつも逃げ場があるとか、こっちの関係が悪かったら、こっちに行こうとかそうじゃなくて、その濃密な人間関係でどうやって折り合いつけていくか。 そこが大事だと思うんですよ。 だから車も一緒でしょ?この車が気に入らなかったらこっちに行こうとかって、ちょっと違いますよね。 

■T そうですね。 故障したら、買い換えちゃうって方向ではないですよね。 

■S 折り合い付けながら、この車とやっていく。 だから30万キロで、そこまでいったら拍手するってのはとても良い。 

■T (笑)

■S いや、本当本当。 だって、10万キロで終わりみたいな車社会の中で、20万キロ、30万キロを、目指して乗ってるお客さんが多いわけでしょう。 それは、この車とちゃんと付き合って行くんだと、このエンジンと付き合って行くんだっていう事ですよね。 やっぱり、ゴルフ2乗りのその気持ちっていうのは良いですね。 そういう所を盛り上げられたら良いですね。 

■T 良いですねえ。 

■S 繋げる意識。 車でも、文化でも、風景でも。 使い捨てや上書きではなく、繋ぐ事ってとても大事ですよ。

■T ゴルファーズシリーズの別企画で、菅原さんと僕が誰かを訪ねる感じで、シリーズ化したいなと思っているのですが。 

■S 面白いですよね。 僕、そういうのなんでも乗っちゃうから。 

■T 出来る範囲でいいんですけど。たまにどうですか?

■S ああ、良いですね。楽しそうですね。

■T じゃあ、やりましょうという事で。

■S はい。是非やりましょう。この間気仙沼行った時も、出発朝の4時かなんかでしょ?日野をスタートして、車の中では、ずーっと二人で話をしてるわけですよ。っで、陸前高田に行ってインタビューをする時も話をしてて。その次、陸前高田から気仙沼に行く間も話をしてた。音楽とか無かったんですよね? 

■T ずーっと、おっさん2人で喋っていましたね。(笑)

■S おっさん2人、BGM無しですよ。そんで、夜も小野寺さん達と喋ってて、だから何時間話してたんですかね?

■T 4時から12時までだから、多分20時間位。

■S っで、翌日声が枯れてた。(笑)

■T 馬鹿だなーって。なかなかいい大人が、こういう馬鹿なみたい事やらないなって思って。その面白さは、なんか伝えたいですよね。

■S そうですね。だらだら喋って、喋り旅。やりましょう。

■T ゴルフ2乗ってる人って、面白い人いっぱいいますからね。

(END)

 


協力  NPO法人 いのちのミュージアム

・この場所を訪れて

 廃校になった小学校を再利用して造られた『いのちのミュージアム』。 校庭からは、野球少年達の元気な声が教室の中にまで聞こえてくる。 そこには、100命余りのメッセンジャーが静かに命の大切さを伝えていた。 館内を案内してくれた代表の鈴木さんは言う。 「私達の願いは、命というものはつながっていって欲しい。 命というものは、永遠につながっていくものである。」と。  この場所を訪れると、自ずと生と死とを意識する。 人より先に死ぬという事。 人より長く生きるという事。 残された人の気持ち。 逝った人の気持ち。 僕はまだ生きているからそっちの気持ちはわからない。 でも、残された人の気持ちは少しわかる。 幸せだったのかなって考えてみたり。 あの時、ああしていればって責めてみたり。 たまに夜の空を眺めて語りかけてみたり。 他にもいろいろあるけれど、思い出す時って必ず笑った顔なんだ。 だから僕も笑顔で言うよ。 「ありがとう。」ってね。 

Mr.AG

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